1950年、最初のF1グランプリは、イギリスのシルバーストン・サーキットで開催された。
それ以前にも“グランプリ”は行なわれているのだが、“世界選手権”を念頭に現在の形になったのは1950年。
その歴史は、マシンという“道具”に様々な思い出と共に積み込まれている。

【第8回】ベンチュリーカーは納豆だった!?

2008年12月3日(水)
イラスト:古岡修一

1968年に登場して、F1マシンの定番になった“ウィング”。フロントとリヤに、飛行機の翼をひっくり返しにして装着された“ウィング”は、飛行機の浮力とは反対の“ダウンフォース”を発生してコーナリングスピードを飛躍的に高くした。

imageその後、高さ規制などがあったものの、F1にウィングは付き物になったのだが、1978年に異変が起きた。名門ロータス・チームが、まったく別の方法でダウンフォースを発生することを発見したのだ。地面とボディ下面で形作られる形状で地面に吸いつく“ベンチュリーカー”の登場だ。

水道の蛇口をひねって出て来る水の流れに、背中合わせにした2本のスプーンを近づけると、カチッと吸いつく。「流体は、流速が高くなると圧力が下がる」という“ベンチュリー効果”だ。

この定理を使った新発想。ボディ下面を途中で絞り込み、路面との間にベンチュリー形状を作って流速を高めると、驚異的な負圧が生み出され、大気圧でマシンが地面に押しつけられるのだ。

1978年に登場したベンチュリー・システムを搭載するロータス78は、連戦連勝を飾り、アメリカの英雄マリオ・アンドレッティをワールドチャンピオンに押し上げた。

ちなみにこのシステムは、緻密な計算が生み出したものではなく、風洞実験の後片づけをしていたスタッフが、ゴミを集めるチリトリをボディサイドに立てかけたまま気付かずに実験を再開したところ、風洞の計測器が、これまでに見たことのない強烈なダウンフォースを発生していることを示していたのだった。

ベンチュリー効果は、すでに風洞実験で試されていたが、ボディ横から吸い込まれてしまう空気を遮断していなかったことから、当初は大きな効果は得られなかった。しかし、チリトリがボディ横から流れ込む空気をせき止める遮蔽板の役目をして、ベンチュリー効果が高まって大きなダウンフォースが発生することが確認されたのだ。作ろうとしてできたのではなく、ワラに包んで保管しておいた大豆が納豆になったような物語。ベンチュリーカーは納豆と同じだった!?

ベンチュリーシステムでいかにダウンフォースを発生させていたかは、当時のF1にフロントウィングがないことでも見て取れるが、強烈なダウンフォースは、マシンのスピードアップだけでなく、様々な弊害を呼んだ。

まず、ボディ横からの空気の流れを遮断するために、“サイド・スカート”と呼ばれる遮蔽板が必須だが、これが事件を引き起こす。密閉性を高めるために、スカートは常に地面に擦れていたが、何かの拍子にスカートが外れる場面も少なくなかった。ベンチュリーカー全盛時代のダウンフォースは2トン超と言われていたが、スカートが外れた瞬間に、その強大なダウンフォースが一気に減少、高速コーナリング中のマシンはバランスを失う。スカート破損が原因のコースアウトで、何人かのドライバーが命を落とし、可動スカートは禁止された。

しかし、スカートが禁止されても、ダウンフォースへの欲求は高く、デザイナーたちはスカートでボディ横からの空気を遮断するのではなく、ボディそのものを上下される方法を考え出した。これに対してFIAは、“地上6cmルール”で対抗。走行中のマシンは、常に最低地上高が6cmなければならない、というその規則を徹底するために、1辺が6cmのサイコロを長い棒の先につけて、ピットインするマシンの地上高の計測を始めたのだ。だが、この網の目を潜るシステムが登場する。油圧で車高を調整するハイドロリック・システムである。

油圧で車高を調整し、ピットでは6cmに納まっている車高が、ピットアウトした後にドライバーが油圧モーターのスイッチオフして地面ギリギリまで車高を下げるのだ。ピットに戻る場所に6cmルールの“検問”があるのだが、その直前でドライバーがスイッチオンすると、ニョッキリと車高が上がって6cmをクリアーする。1981年の終盤には、この奇妙な光景がF1サーキットのピット出入り口の風物詩になった。これに対抗してF1Aは1983年に、「前輪と後輪の間のアンダーボディは平ではなければならない」、という“フラットボトム規定”を制定。地上高問題に決着が着いた。

image ロータスが世に送りだした“ベンチュリー・システム”は数々のドラマを作った。例えば、ロータス78が一斉を風靡した1978年の翌年、ロータスは進化型の“79” (上のイラスト)を投入するが、前年に大成功を納めた“78”の影響を受け、すべてのマシンがベンチュリーカーになっのだが、その中で最も活躍したのがウィリアムズFW07だった。

現在もウィリアムズの技術部門を統括するテクルカル・ディレクターのパトリック・ヘッドは、冒険をしないことを知られる手堅いデザイナーだが、ウィリアムズFW07の成功を、“Aだったロータス78をまねて、他のデザイナーは欲張ってZを作ろうとしたが、我々はMかNを狙った”という名台詞を残した。

今やF1で最も多くのシェアを誇るアライ・ヘルメットがF1に登場したのも1970年代終盤。1976年の日本GPのときに、のちにウィリアムズでワールドチャンピオンを獲得することになるアラン・ジョーンズに、アライが製品提供を申し出たが、ケンモホロロに断られた。しかし、ホンダ・エンジンがウィリアムズに積まれることになった1984年、アラン・ジョーンズは、実績を重ねたアライを使いたいと、自らオファーを寄せ、晴れてユーザーになった。

ちなみに、当時から、アライ・ヘルメットは、F1カメラマンの金子博氏が、製品やバイザーの運搬や、サーキットでのメンテナンスを担当していた。そのヘルメットは、今でもイギリスのドニントン・コレクションに保管されている。
(MYS/Yamaguchi Masami)