1968年にロータスがスポンサーカラーという思想をF1に持ち込んで以来、ドライバーにはひたすら運転すればいいだけでなく、他の能力、契約交渉力が求められるようになった。元々、優れたF1ドライバーは明晰な頭脳が必須条件だが、1969年から1980年代中盤までのチャピオンのほとんどが、蛮勇よりも頭脳プレーを身上とするドライバーだった。
その代表格が1969、1971、1973年ワールドチャンピオンのジャッキー・スチワート。1960年ローマ・オリンピックでは、クレー射撃のイギリス代表候補にもなったスチュワートは、頭脳的なレース展開だけでなく、レースの安全性への提案でも注目された。それまでのドライバーが安全のことを口にすると“腰抜け”呼ばわりされる風潮があったがそれを打破した功績も記憶されるべき。
スチワートは1973年の引退後、テレビ解説者として現場に顔を見せつつ準備を進め、1996年には、息子ポールのF3000チームをベースとしたスチワート・グランプリとしてF1に参戦。その後、ジャガー→レッドブルと名を替えるチームを率いて、3年間の活動を行なった。
スチュワートに続いたのは、エマーソン・フィティパルディ。1972年にイタリアのモンツァで最初のワールドチャンピオンを決めた。プレスルームからの電話で「私は、ブラジル初のワールドチャピオン誕生を報せる光栄に感謝したい」と、初のチャピオン誕生をラジオでブラジルに伝えたのは、ラジオのコメンテイターとして活躍していたエマーソン・フィティパルディの実の父親だった。フィティパルディに影響を受け、ネルソン・ピケ、アイルトン・セナなど、ブラジルはF1に欠くことができない国になった。
さらに頭脳プレーの代名詞として登場するのが、1975年と1977年、そして1984年にワールドチャンピオンを奪ったニキ・ラウダだ。貧困F2時代に、銀行に掛け合い、自分自身の生命保険を担保に活動資金を準備した。「死んだら私の保険金が受け取れる。生きていたら? ワールドチャンピオンになってお返しします」。ちなみに、1971年のデビューは、現在、国際自動車連盟会長を努めるマックス・モズレーが起こしたマーチ・エンジニアリングからだった。
さらにラウダは、1979年に引退し、ラウダ航空の経営に乗り出すが、1984年にポルシェを口説いてターボ・エンジンを作らせ、そのエンジンを持ち込んでマクラーレンで復帰。三度目のワールドチャンピオンを獲得するという離れ業をやって見せた。チャンピオンを決めた1984年最終戦ポルトガルGPの2位表彰台で、優勝したプロストに向かって、「次は君の番だ」と囁いた。プロストはその通り、翌年のチャンピオンとなり、聡明な頭脳の遺伝子を受け継いだ。
スチュワートを一躍有名にしたのは、ケン・ティレル率いるティレル・オーガニゼーション。1970代には、ロータス、ブラバム、サーティース、ウィリアムズ、マーチ、そしてマクラーレンなど、プライベーターが全盛時代を迎えた。ティレルはその中心的存在だった。
1967年に登場した市販F1エンジンのフォード・コスワースDFVと、ヒューランドのミッション、グッドイヤーのタイヤを買う財力があれば、F1オーナーになれた古きよき時代。しかし、その中で現在まで残っているのは、マクラーレンとウィリアムズだけであり、さらマクラーレンは、創始者のブルース・マクラーレンの後を受け継いだテディ・メイヤーから、1980年代にロン・デニスの手に渡って現在に至っている。
(MYS/Yamaguchi Masami)